ブレイク・アウト/ハート・ブレイク

 

 

 長い長い試合だった。遠い異国の地で、所謂グランドスラムと呼ばれる大きな大会で行われた日本人対決の結末を、誰もが固唾を飲んで見守っていた。勝者は真田弦一郎。世界ランキングを覆しての勝利だった。一瞬の静寂。ついで割れんばかりの大きな歓声。真田は己の勝利を信じられないというように呆然としたが。それも一瞬のこと。ぐっと拳を握りしめ、噛みしめるように俯いた。日本の実況者が「まさに武士のような姿ですねえ」とそのストイックすぎる喜びの表現を称える。
 この大きな大会でのまさかの日本人による決勝戦は、当然日本中が注目することとなった。日本人対決というだけではない。まさかの同郷。同い年。しかも中学校から同じ学校へ進学する友人同士。同じ大会に出ることが決まった瞬間から特集が組まれ、スポーツ番組のミニコーナーでは連日のように二人の友情がいかに美しいものかを語った。それは二人が大会を勝ち進めば勝ち進むほど熱を増していった。
 ゆっくりと真田が顔を上げる。もしかして感極まって泣いているのではないかと期待したのであろう、カメラが寄った。しかし違った。顔を上げた真田はぱっとまるで幼い少年のように表情を輝かせている。彼をよく知る者ほど驚いただろう。真田といえば厳格をそのまま絵に描いたような人物でおおよそ笑顔というものを見せることがなかった。真田の笑顔といえば試合中に見せる不敵な、まさに神をも超えようとする不遜な皇帝さながらの笑みだったのに。今、真田は幼子のようにあどけない表情をしている。
 そして彼は口を開いた。
「幸村!」
 口にしたのは対戦相手の名前であった。彼の低い声は歓声の中でもよく通る。しかし、対戦相手へ何を言うのだろうという期待に会場は徐々に静まってゆく。
「好きだ! 付き合ってくれ!」
 一瞬の静寂。
 そして湧いた。

 

「うわーーーーっはっはっは!」
「や、やるのう! さすが我らの皇帝陛下じゃ! まさか公開告白してくれるとは思わんぜよ!」
「お…おもしれーーーーーー! 面白すぎるだろい!」
 閉店後のラーメン桑原は大盛り上がりだった。 ラーメン屋には不似合の大型テレビに輝く笑顔の真田が大写しになっている。このテレビは最近買い替えたものだ。ジャッカルが。
「すきだ、までなら言い訳もできたでしょうが付き合ってくれですからねえ。二人の友情物語をあることないこと放送してきた方々は友情を飛び越えたこの展開に今頃すごい顔になっているでしょう」
「本人が日本にいないのを良いことに精市の病気のことも面白おかしく脚色していたからな。……うん、弦一郎はもっとやってもいい」
 爆笑する三人と、したり顔の二人、そして「えっ、えっ? 副部長、えっ、そうだったんスか?」と動揺する者が一人。
 彼らを知る者達はみな、この元チームメイトと同様に今頃大盛り上がりしているだろう。おそらく面倒見の良いところがある某御曹司は今頃指をパチンと鳴らして彼らに不利益がないようにとスポンサーに根回ししているに違いなかった。
 柳は知っていた。真田がいつ頃からか、幸村に勝つ気がなくなっていたことを。それに気付いた幸村が課した約束を。真田、俺を好きだろう。もし俺に勝ったら付き合ってやる。柳の目の前で、幸村は真田にそう宣言した。それは柳から見ると告白だったのだが、真田にとっては死刑宣告のようだった。
 そこから真田が、ただでさえ克己的に振る舞う彼が、どれほどの努力を重ねてきたか。柳が知る限り、真田が幸村に勝ったのは練習試合も含めてこれが初めてだ。約束は果たされるべきであるのだが、しかし。
「……15%」
 このタイミングでの告白で、真田の恋が成就する確率は。

 


 カメラは切り替わり、幸村を映し出す。
 敗者である幸村はそれでも神の子の名に恥じぬ清廉さで佇んでいた。流れる汗を手の甲で拭って。ふっと息を吐いたその唇が弧を描いた。美しい笑みだった。誰しも目を奪われるような聖母のような笑みだ。そう、当時立海大附属のテニス部にいた者でなければ。
「ヒッ……!」
 赤也以外は声を殺せたのはほとんど奇跡だ。かつての幸村があの麗しい笑みを浮かべながらどれほど過酷な練習メニューを提案してきたか。
 幸村の唇が動いた。声は聞こえない。理解したのは真田本人と、柳と、あと読唇術が使える者達のみ。
 二人は健闘を称える握手をして、そして画面はテレビ局のスタジオへと切り替わった。
「……参謀、幸村は何て?」
「ばかやろう、だそうだ」
「そりゃ違いねえ」
 なんて、まさかのジャッカルがそう感想を口にしたものだからまた笑いが起こった。
 その後、握手をしている真田がまた似合わぬションボリした表情をしているのが放送されてしまい、まさかの柳生が過呼吸になる事件が起こったのだった。


「真田、キミね。テレビで放送されてること知らなかったとは言わせないよ」
「……面目ない」
 選手控室に戻った二人の携帯には恐ろしいほどの連絡が入っている。幸村の連絡ツールにはたった今、柳がから「御手柔らかにな」という通知がきた。無視した。真田にもよりによって実兄から「おめでとう。そしておめでとう(笑)」という連絡が入ってきている。とりあえず無視した。
 幸村も理解している。自分を好敵手ではなく守護対象のように振る舞い始めた真田にもう一度挑まれるために取った手段が真田にとって如何に残酷だったかということも。真田が今日のためにどれほど努力を重ねてきたのかということも。
 それでも怒らずにいられなかった。だって、自分一人だけしか見れなかったはずのあんなにかわいい真田が世界中の人間に見られてしまったのだから!
 だから、怒っているのだ。真田はそれを理解していない。大きな身体を丸めて落ち込んでいる。ああ、なんてかわいい。愛しい。——ようやく彼に捕らえられた。幸村もまたあどけない子どものように瞳を輝かせていたのだが、こちらはテレビどころか落ち込む真田すら目にすることはできなかった。
 尚、幸村の唇の動きから返答が解析された結果、真田は優勝に浮かれて公衆の面前で告白した上、秒速でフラレた男になっていたがこのときの二人はまだ知らない。