キミにかける恋の魔法

「良いかい? よく見てて」
そう言って幸村が手にしているのは糸にぶら下げた五円玉。それがゆっくりと、左右に振れる。右、左、右。幸村が何をしたいのかは明白だった。
幸村に呼び出され、その家を訪れた真田であったが普段から互いの行き来している二人である。当然ながら別段何の警戒もしていなかった。なんとなく幸村の表情が強張っているのが気になってはいた。
いつものように幸村の部屋の、真田は椅子に、幸村はベッドの端に腰掛けて、一息ついたばかりの出来事であった。
「ゆ、幸村……?」
「ほらほら、ちゃんと見て真田」
催眠術。
幸村がそれを真田にかけようとしているのは解る。しかし真田がわからないのは、その先だ。幸村は一体己になにを課すつもりなのだろう。
不安がないわけではなかったが相手は親友である幸村だ。あまり無茶なことはしないだろうと信じるしかない。真田は黙って従うことにした。なんだかんだ言って真田は幸村に逆らえない。その理由も自覚していた。
言われるがまま、幸村の指先から垂れ下がる五円玉を見つめる。
一体どんな催眠術を掛けようというのか。
黙って幸村の言葉を待った。
「——真田はだんだん……」
ゆらり、ゆらり。
五円玉が揺れる。
幸村の形の良い唇が言葉を紡ぐ。
「俺のことが好きになる」
ぐ、と息が詰まる。
声を出さなかった自分を褒めたい。真田は気付かれぬようにゆっくりと、深く息を吐き出す。
何だ、それは。
一体どんな意図があるというのか。
固まる真田を他所に幸村が続けた。
「ええと、好きっていうのはそのね、友情的なやつじゃなくて、恋愛的な意味のやつで……」
ヘタか。
催眠術は左右に振れる五円玉の動きと言葉のリズムで催眠状態へと促すものである。真田は催眠術というものにまったく詳くはなかったが、幸村のそれが下手くそなのは理解した。
しかし今はそれよりも幸村の言葉の内容である。
催眠術で、俺が、幸村を、好きになる……?
先の幸村の言葉を反芻した真田は僅かに眉根を寄せた。そんなもの、掛かる訳がない。理由は明白だ。このような催眠術がなくとも真田は幸村のことを好きなのだ。もちろん、恋愛的な意味で。
もしももっと好きになるというならば恐ろしい。今でも考えられないくらいに懸想を寄せているのだから。
五円玉が揺れている。
それよりも重要なのはなぜ幸村がそんな催眠術を掛けたいのか、だ。
——期待、してしまうではないか。

幸村は真田の内心に気がつく事なく催眠術を続けている。
「真田はだんだん、俺のことを好きになる」
すでに好きだ。
「真田はだんだん、俺のことすごく可愛く思えてくる」
コートに降臨せし神の子である時には見せぬ、年相応の様子を可愛いと思ってしまうのは仕方のない事だろう。
「真田はだんだん、俺を抱き締めたくなる」
真田がその腕に、背に触れたい、腕に閉じ込めてしまいたいと思ったのは一度や二度ではない。
「真田はだんだん俺にキスしたくなる」
幸村の唇は厚くもなく、薄くもなく、ほんのり桜色に色づいている。吸えばきっと甘い味がするだろうと考えることもある。
「真田はだんだん、俺を、……恋人だと思うようになる」
そんな風に思ってしまっていいのか?
それが幸村の望みだと言葉通り受け取ってもいいのか?
真田は五円玉から幸村へと視線を移した。幸村もその両の瞳に真田を映している。不安を滲ませながら。真田の反応を待っているのだろう。
幸村の唇が微かに震えながら、開かれた。
「……どう?」
幸村の問いに真田は戸惑う。
何を尋ねられているのだろう。尋ねたいのは真田の方だった。この、催眠術の意図を。
「どう、とは?」
「俺のこと、好きかい?」
「あ、ああ、好きだ」
今まで一生言えぬ、墓まで持っていこうとしていた思っていた言葉を口から出せたのは幸村のその意図に期待してしまっているからか。それとも僅かでもこの催眠術に効果があったのか。
真田が答えると幸村はやった、と小さく呟いた。
「成功だ」
そう溢したうっすらと頬を上気させている。叶わなかった夢がこれで叶うとでも言うように瞳を輝かせて。幼子の頃のような表情は、久し振りに見るものだった。
「ねえ、俺のこと可愛いと思うかい?」
「ああ、かわいいな」
「俺を抱き締めたい?」
「ああ」
幸村の問いかけに真田は一つひとつ頷いた。どこかはしゃいだ様子が素直に可愛らしいと感じる。真田もまた幸村にしか見せない表情で穏やかに微笑む。しかし幸村の次の行動にその笑みが固まった。
「じゃあ、ハイ」
「!」
幸村が両腕を広げている。
え、と見つめるが幸村はまったく真剣そのものだった。確実に、抱きしめることを期待されている。
誘われるように真田は立ち上がり、ベッドに腰掛ける幸村の元へと踏み出した。
おそるおそる、期待に瞳を輝かせてる幸村のその肩に手をかける。そしてそっと引き寄せた。ふわりと香気が鼻腔をくすぐる。部活後でシャワーもまだだというのになぜ良い匂いがするのだろう。真田の心臓は急激に脈を高めている。
真田はいっぱいいっぱいになりながら肩を抱いている、というのに。
「もっと強く!」
「う、うむ!」
幸村から飛んだのは叱咤の声だ。真田は頷くと肩を掴んでいた手を幸村の背と腰に回した。そしてぐ、と力を込める。中腰では難しく、仕方なくベッドへ片脚を掛けた。ぎし、とベッドが鳴る。幸村のベッドに乗っている。意識しないようにと思っても難しかった。
幸村の柔らかい癖毛が真田の頬を撫でる。幸村の心臓も少しくらは高鳴っているのだろうか。真田は考えるが、残念ながら自分の心臓の音に掻き消されて聞こえそうにない。真田が幸村の身体を意図を持って抱き締めるのは初めてである。しかし、抱き抱えるのは初めてではない。リハビリ室から病室に戻る幸村を支えた頃の身体は今よりずっと細く、儚く感じたものだった。よかった、本当に。いや、今はそういうしんみりしている場合ではない。
「く、苦しくないか?」
「ふふ。ううん、嬉しい」
真田のかろうじての問いかけに幸村は小さく声を上げて笑って応える。幸村の両腕もまた真田の背に回された。頭ともう一箇所に血が集まる。
このままで居たい気持ちと、兆しに気付かれないうちに解放されたいという二律背反が真田の中でひしめき合う。沸騰しそうになりながら幸村を抱きしめていると、幸村が不意に顔を上げた。
……おい、まさか。
先程の催眠の言葉が蘇る。可愛いと思うようになる。抱き締めたくなる。そして……
「キスもしてくれる?」
幸村は目を瞑って、少しだけ唇をツンと尖らせて真田に顔を向けた。
こんなことをしておいて照れているらしく頬や眦が赤く染まっている。それが真田の胸を打つ。
したい。とてもしたい。
しかし、そういうのは催眠術にかかってない時が良いのではないか……?
真田のなけなしの理性がそう主張する。とはいえ実際は催眠術に掛かってなどいないのである。理性が自らの仕事を放棄しそうなことは目に見えていた。
「ゆ、幸村」
「何だい、真田」
「催眠を解いてくれ」
真田の言葉に幸村は閉じていた瞼を上げてむっとした視線を向ける。
「だめだよ。解いたら俺のこと好きじゃなくなるだろ」
「いや、好きだ! 俺は幸村が好きだ!」
「だから、それは催眠に掛かってるからそう思ってるだけなんだよ」
勢いのまま想いを告げてみるものの、穏やかに諭されてしまう。
く……ッ、何を言っても信じてくれそうにない。真田は歯噛みしながら思う。こんな催眠術などという突飛な発想を持つ前にどうにか普通に好意を示してくれるのではいけなかったのか……!
幸村は「ほら、早く」とまた唇を尖らせて真田からの行動を待っている。
「……どうすれば催眠を解いてくれるのだ」
勢いに飲まれないようにと自戒しつつ真田が尋ねると、寂しそうな笑みを浮かべた。
手の届かない何かに焦がれるような、そんな表情だった。何故、そんな顔を。真田が問う前に幸村が口を開いた。
「そうだね」
悲しそうな、それでいてどこか悪戯っぽい蠱惑的な笑みで。
真田は息を呑む。惚れた相手のそのような表情に心が動かされない訳がなかった。
「俺を抱いてくれたら解いてあげるよ」
そして続いた言葉には言葉を失った。
「は……?」
幸村を、抱く?
真田は何度もその言葉を反芻する。真田にとって都合の良い、しかし今の状況ではあまり良くない意味でしか解釈できない。
幸村とまぐわえと言われている。
「できるだろ。俺たちは恋人なんだから」
「……」
ゴク、と咽喉が鳴る。
幸村から求められている。血が、集まる。
幸村が真田の胸にしなだれ掛かる。幸村の熱が真田の思考を奪ってゆく。
今しない方が良い。今は何をしたって催眠術のせいだと思われるのに。理性はそう言っているというのに、抗えない。
「幸村……」
真田の声に幸村が顔を上げる。ああ、やはり甘そうだ。
真田は食らいつくように、幸村に口付けた。