丸井、と呼びかけたその声で続けられた言葉に、心臓が止まるのではないかと思った。
咄嗟に息を詰めて身を隠す。
「おー、いーぜぃ」
しかし、返された音の軽さに違和感を抱き、そして、ああ、と合点がいった。
付き合ってくれないか。
その言葉に、自分が考えたような意味は含まれない。
省みれば、もし手塚に「付き合ってくれ」と言われたら「どこの山だ」と訊くし、跡部だったら「国内か?」と確認する。このような勘違いをしてしまうのは、己が幸村に、この幼馴染であるうつくしい少女に、本人にはとても言えないような、疚しい感情を抱いているからだ。
幸村との出会いは十年ほど前になる。同性の友人だと思っていた幼馴染は気が付けばしなやかに四肢が伸び、悪戯めいた表情や柔らかな頬はそのままに可憐な少女に成長した。その美貌は男女問わず魅了している。
残念なことに当人にはそんな自覚がないらしく、「一緒にお風呂に入ろう」だとか「一緒の布団で寝たい」だとか言ってくるのだからたまったものではない。つまり、俺は幸村にとっては「安全な存在」ということだろう。悲しいかな、全く相手にされていないのだ。その分、幸村と共に、誰より近くに居られるのだから悪いばかりではないのだが。
「真田」
いつも柔らかく響くはずの声が今日はいくらか硬い。
どういうわけかと伺うものの、海を反射して輝く夕陽が逆光となっており表情は見えない。凪いだ海から聴こえる穏やかな波音か今日はやけに遠い。
絞り出すように幸村が言った。
「付き合ってくれないか」
先日丸井との遣り取りを目にしていてよかった。そうでなければ勘違いしていたに違いない。
夕陽に染められた耳が、震える声が、俺を勘違いさせようとしている。しかし俺は幸村にとってただの幼馴染で安全で安心な男なのだ。
勘違いせずに俺は強く頷いた。
「ああ、いいぞ」
幸村となら例え行き先が地獄でも付き合おう。
「っ、本当に?」
「そんな嘘を吐いてどうする」
「……そっか。ふふ」
どこに行くのかは知らないが、幸村の足取りは軽やかだ。そこに行くのが、あるいは俺を連れて行くのが本当に楽しみなのだろう。もしかしたら花でも見にいくのかもしれない。日が沈む前に辿り着けばいいのだが。
「送ってくれてありがとう」
「……ん?」
何故か、幸村の家に来ていた。
付き合うという話はなんだったんだ。
疑問に思う俺の体幹に決して弱くない衝撃がぶつかってきた。
柔らかい髪。それに、鳩尾あたりに感じる柔らかいなにか。
「こ、これくらいはいいだろ。俺たち、付き合ってるんだから……」
一緒にお風呂はまだだめかもしれないけれど、などとつぶやいて。柔らかいそれは甘い香りとわずかな熱だけを余韻に残して離れてゆく。
「……おやすみ、真田。大好きだよ」
えへへ、と愛らしく微笑んで、幸村は自分の家へ入っていった。
そして俺だけが取り残される。物理的にも、心情的にも。
「…………………………は?」
染み入るように、自分のとんでもない勘違いに気がついた頃にはもう日が暮れていた。