朗々と。高らかに。美しい歌声が響く。
ああこの声のためにどれほどの研鑽を積んだのだろう。
すっと延びた指先一つ一つまでも洗練されている。
ファンクラブの更新で垣間見えるだけでも多大な努力を積んできたことを知っている。
その結果が今目の前にある光景につながっている。
いかん、そんなシーンではないのに涙が出そうだ。視界か歪む。もったいない。今は瞬きすら許されないというのに。
一瞬一瞬を網膜に焼き付けるのだ、推しの姿を。
そう、推し俳優である幸村精市の姿を!
「精市は今日もよかったな」
「ああ! 特に丸井と木手がメインのシーンで脇で見せていた演技は素晴らしかった! あの難しいキャラクターの良さを存分に引き出していた!」
真田は当然ソロも良かったが、と前置きして熱弁する。友人であり、真田を幸村という素晴らしい推しと出逢わせてくれた恩人(沼に引き込んだ張本人とも言う)の柳は深く頷いた。
「やはり精市はああいった細かな演技が素晴らしい。キャラクターに対する解釈が深くできているのだろうな。あと歌唱力もますます上がっている。ストレートのミュージカルも決まっているのだろう?」
そう、幸村は一般的にも超有名な舞台の出演も決まっている。端役ではあるが名前のあるキャラクターだし見せ場は約束されており、すでに楽しみだ。
「ああ。またチケットの協力は願えるだろうか?」
「無論だ」
真田と柳は頷きあう。しかし、まずは今日のソワレだ。がっとパスタを掻き込む。ソワレは柳が当ててくれた下手よりの最前列だ。万全の状態で臨まねばなるまい。早めに入って個人ブロマイドを買い足しても良い。
そんなことを考えていると柳が突然口許を抑えて呻いた。
「どうした蓮二!?」
「ッ……孫からのメールだ……!」
柳蓮二に孫はいない。それどころか子もいない。
しかし真田は瞬時に察した。柳の最推し俳優である切原赤也のメルマガが配信されたのだ。
向けられたスマホを覗き込む・
『今日も熱いっスね! お互いたいちょーには気をつけましょう!』
誤字。そしてひらがな。しかしそこにあるのはファンであるこちら側への確かな気遣いだ。わかる。もし幸村からこんなメールがきたら真田も尊さに打ちひしがれることだろう。幸村は漢字を使えるが。
「く……! 自分も舞台で多忙を極める中でこのような気遣いができるようになるとは……ッ」
柳は感極まって身を震わせている。
「拙い部分はあるが歌唱力は目を見張るものがあるし体幹が鍛えられてきたのだろう、殺陣もよくなってきている。その上このメールだ。切原も成長しているのだな」
「ああ! 新人俳優の登竜門とも言われるあのミュージカルも決まっているしこれからも成長を見せてくれることだろう!」
真田と柳は頷き合い、今度こそ劇場に程近いカフェの席を立つ。
さあ、ソワレが待っている。
「今日もいましたねあの二人」
「ああ。今日は並んでいたから余計に目立っていたね」
ソワレまでの短時間。化粧直しを並んで行いながら赤也の言葉に幸村は頷いた。
幸村がデビューした頃からの古参ファンであるネコヤナギさんと、数年前からファンになってくれたらしい比較的新顔のファンのゲンイチローさん。ネコヤナギさんは最近は切原にご執心らしいが変わらずファンクラブには入ってくれておりメッセージもスパチャ的なものもくれている。
「あの人、いっつも暑そうなカッコしてるから心配なんすよねェ……涼しい顔してるけど……ついメール配信しちゃいましたよ」
「さっき難しい顔で打ってたのはそれか」
衣装を脱がずにメールと睨めっこしていて衣装さんに怒られていたっけ、と先程の光景を思い出す。ネコヤナギさんは結構ダメ出しもするタイプのファンなのだがその意見は的を射ており参考にしてみたこと劇的に良くなったからか赤也はよく気にしている。それはファンと演者の領域を脅かすほどの執心にも見えるが赤也は気付いていない。こちらは演者で向こうはファンだということを忘れてはいけないよ。以前の幸村ならそう嗜めていた。しかし。
人のこと言えないんだよなあ。
ゲンイチローさん。うさいぬとかいう可愛らしいキャラクターをアイコンにした彼はそのアイコンに似合わずいつもお固いメッセージをくれる。若手男性俳優にしては男性ファンの比率は高い幸村であるが、ゲンイチローさんはファンにありがちな下心を一切見せることがない。
大柄な身体を縮こまらせて熱心に舞台を見つめる姿に、幸村は恋をしていた。
しかしあくまでもファンと演者である。接触はできないし、幸村にとっては数あるファンのうちの一人で、もしかしたらゲンイチローさんにとっても数ある推し俳優のうちの一人なのかもしれない。
「はーあ、うちのファンクラブも部長のトコみたいに1対1のメッセージのやり取りできたらいいのに」
「そんなのあったら連絡先送るだろ。あの人きっとそういうの嫌がるよ」
「うっ……しませんて、多分ですけど……」
赤也は幸村を以前共演した役どころから「部長」と呼んで懐いている。仕事が終わってもこうして縁が繋がっていくことに自分達だけでなくファン達も喜んでくれるのだから有難いことだ。
メイクの仕上げを終わらせると幸村は台本に目を通す。
きっと彼はソワレも観にきてくれているだろう。最高の自分を見せるために、どんな時間も無駄にできない。
ひゅ、と咽喉が鳴った。
それでも入りをトチらなかった自分を褒めたい。
まさか最前にいるとは思わないじゃないか!
ゲンイチローさんが最前列で相変わらず小さくなりながら熱心に自分を見つめている。睫毛の先まで油断は許されない。
幸村は歌いあげる。いつもより近くにいる、恋する人に届くように。ソロパートが終わったとき、いつもよりも大きな拍手が巻き起こった。
「ゲンイチロー」さんがあのいつもいる大男であると気が付いたのはたまたまだ。目立つ客だったため目に入ってはいたが誰のファンなのか、あるいは関係者なのかそれすらわかっていなかった。
ある日幸村が劇場に向かうため電車に乗っていたときにあの男がいることに気がついた。メガネと帽子とマスクをしているが気付かれては面倒だと乗客に身を隠した時騒動が起こった。
「このッ! 不届きものが!」
突然の大声に驚いて乗客全員が視線を向ける。
例の男が中年のオジサンの腕を捻り上げていた。
「抵抗出来ぬ他人の身体を触るなど極めて卑劣な行為! 捨て置けぬ!」
まるで時代劇みたいな口調だ。あと声が大きい。とても大きい。彼の近くにいた人は耳を抑えている。
誰か痴漢されていてそれを助けたらしい。近くで顔を青くして震えている小柄な女性がいる。きっとあの娘が被害者だろう。可哀想に、注目を浴びたことでより縮こまっている。
「だ、誰を触ったっていうんだよ! 証拠はあるのか!」
中年男が反論する。完全に開き直りだが大男の迫力にも負けずに言い返せたのはなかなか根性があると言えるが被害者をより萎縮させようという意図が透けて見えるのはいただけない。
「フン、被害者なら……」
証拠と言われて男は被害者の女性に視線を向け、言葉を詰まらせた。注目を浴び、加害者に怒鳴られ、ついでに護ってくれてくれている男の声も大きくて、彼女は泣き出してしまっていた。誰が見たって彼女が被害者なのは明白だった。
しかし。男は中年男に向き直ると少しの躊躇のあと。
「お、俺だーーーーーーーーッ!」
と、親指で自らを指差して叫んだ。
ええええええ、と周囲がどよめく。そんなわけはない。が、中年男は動揺した。
「だ、誰がお前みたいなゴツい男を触るかッ!」
「では誰を触ったのかは降りてから詳しく話してもらおうか。弦一郎、駅には連絡を入れている」
割って入ったのは幸村も認知している人物、古参ファンのネコヤナギさんだ。
「蓮二、助かる。では……すまない、あなたも目撃者として共に来てくれるだろうか」
あくまでも被害者は自分として女性に声をかけている。女性も驚きすぎて涙も引っ込んで落ち着いている。なんと不器用な優しさだ。
幸村の胸の内がふわふわと暖かくなる。
それにしても、今ネコヤナギさんはゲンイチロウと言ったか?
幸村の頭の中にファンクラブで熱心にメッセージをくれる男性ファンのゲンイチローさんが頭に浮かぶ。少々古風な文面も先ほどの口調と重なる部分を感じる。
この男が自分のファンなのかもしれないと思うと……うれしい。そうだったらいいのにな。そう考えていたら、「ゲンイチロウさん」がポケットからハンカチを取り出した。それをよかったら、と彼女に差し出している。
そのハンカチの柄はいかめしい顔に似合わない、うさいぬ柄だった。
あ、この人絶対あのゲンイチローさんだ。
そう思った瞬間心臓がきゅうと音を立てた。
この時、幸村は恋に落ちた。
とはいえ、幸村は俳優でゲンイチローさんはファンだ。メッセージが来るたびに何気なく個人情報を引き出すことはできても本名もわからない。結婚はしていなくて恋人もいないことは情報を引き出したので知っているが。それも嘘だったらわからない。もちろん、嘘をつくような人ではないと思っているが。
何かの偶然で向こうが気付かない状況でただの「幸村」とただの「ゲンイチロー」として出会えたなら何か変わるかもしれないが、どんな奇跡があれば叶うというのだろう。
幸村はどうしようもない想いを焦がしていた。
意外に奇跡って起こるものだった。
それが幸村の感想だ。
「助かりました、真田さん」
「い……いや、こちらこそ」
完全に気付かれているが出会ってしまえばこちらのものだと幸村は内心ほくそ笑む。
今日は駅から距離のある劇場だったのだが、普段は駅前にたくさん停まっているタクシーがスポーツイベントと重なったらしく出払ってしまっていた。
この真田という男は幸村がタクシーが捕まらずに困っていたら、同乗しないかと声をかけてくれたのだった。声をかけてから「あっ」という顔をしたからすぐ気付いたのだろう。
真田弦一郎。それが彼の名だ。うさいぬが好きで、書道が得意で、幸村精市という役者のファンで幸村の舞台はほぼ全通している男だ。
幸村は有無を言わさず「お礼がしたいから連絡先を交換しましょう!」と連絡先を奪った。幸村の連絡先を渡すだけだと連絡してこないと思ったからだ。すぐに電話を鳴らしメッセージアプリも送り合っており抜かりはない。
真田はすっかり恐縮してしまっている。
ファンなのに演者と同じタクシーに乗るなんて……とか思ってそうだ。体格が大きいのに困っている姿が幸村には大変可愛らしい。
タクシー代はどうしてもというので真田に払ってもらってしまった。払わせてもらえないと困ると言われたら納得するしかない。
「つまり、精市の連絡先を得てしまった、と」
「そうなのだ! 消すこともできず……くう、俺は弱い……ッ!」
「いや、精市から交換を持ちかけているのに消されたら普通にショックだろうからやめておくほうが良いだろう」
柳が取った劇場近隣のホテルのカフェはホテルという立地のせいか劇場から近いにもかかわらず人はまばらだ。内容が内容だけに同好の者には聞かれたくないがその心配はなさそうだ。
「……それにしても、幸村め。俺がファンとも知らずあのように無防備に。役者だと知らずともあの容姿だ。誰にでもあのようなことをしていては誤解する輩も出るかもしれん」
「……」
柳は誰彼構わずのことではないだろう、という言葉を飲み込んだ。幸村はおそらく真田を認知している。ファンだと知らずに連絡先を交換したということはまずない。つまり、何か思惑か、或いは考えがあってのことだ。
「弦一郎。推しとて人間だ」
「む……それはそうだろうが、急になんだ」
「恋をするのも友情を育むのも自由だ。スキャンダルになって仕事が減るのは困るだろうが誠実な付き合いであれば何の問題もないだろう」
柳が知る限り幸村にスキャンダルは一度もない。真田であれば相手として問題はないし、柳も手を回しておけば滅多なことは起きない。
「精市の仕事にかかるストレスは俺たち一般人では想像もつかない。弦一郎、友人として支えてやるのはどうだ」
謎の財力と人脈を持っている柳が一般人と言われても、と戸惑ったもののその内容には頷けるものがあった。
そう、プライベートが知りたいとかそういった欲求ではなく推しを支えるためだ。
真田の携帯電話が音を立てる。幸村からのメッセージが届いていた。
『こんにちは。先程はありがとうございました!
さっそくお礼がしたいのですがお休みの日を聞いても大丈夫ですか?
お返事お待ちしています。』
こんなにすぐに会いたいなんて、本当にストレスが理由かもしれない。
真田は推し・幸村精市の友人になることを決意した。