幸福の練習台


「うーん、小指ならなんとか入る……かな?」
 それもいつまでのことか。テニスに有利な高く伸びた背が、今この時だけは憎い。幸村の指で安っぽい輝きを放つ指輪はかつて幼馴染が贈ってくれたものだ。
「いつか本物をおくろう。だから、大人になったらおれとけっこんしてくれ」
 顔を真っ赤にした真田はそう言って、幸村の薬指に指輪をつけてくれた。当時はちょっとぶかぶかだったのに。アクアマリンを模した淡い水色の指輪は、蛍光灯にかざすと昔と変わらず美しく輝く。きっとあの幼馴染であれば本当に贈ってくれるだろう。自分はいつか彼と結婚するのだと信じて疑っていなかった。
 あのときまでは。
「その……幸村……」
 珍しく歯切れが悪い幼馴染が緊張した面持ちで幸村を見つめている。言いにくそうに視線を泳がせて。通い慣れた真田の部屋でのんびりと膝を伸ばして寛いている幸村に対し、真田は正座をしている。
「頼みがあるのだが」
「何だい、改まって」
「あー……っその、だな」
 ——口吸いの練習をさせてくれないか。
 その言葉に幸村は固まった。
「も、もちろん無理強いはしない!」
 慌てて言い募る言葉が幸村の耳を通り抜けてゆく。
「れ……練習…………?」
「あ、ああ。きたるべき本番のためにもだ」
「……」
「やはりだめか?」
 幸村を練習台にして、一体誰と本番を行うというのだろう。もしも幸村が断ったら他の人と練習してしまうのだろうか。……幸村は、練習でないと真田に触れることは許されないのだろうか。少しだけの躊躇いのあと、小さく頷いた。
 それをどう受け取ったのか。は、と息を吐く音がする。俯いていた幸村がそっと顔を上げると真田が嬉しそうに表情を緩めていた。
「ゆ、幸村……」
 肩を掴まれ、ぐっと引き寄せられる。ゆっくりと顔が近付いてきて、しかし。かつん、という音と痛み。歯がぶつかったらしい。唇の感触を味わうこともできないまま痛みだけ残して離れてゆく熱。
「ふふ。もっと練習が必要そうだね」
 幸村の言葉に「う、うむ!」と真田が強く頷いた。「また付き合ってくれ」
 あの時、ちゃんと笑えていただろうか。

 真田はいつか自分のものになるはずだと信じて疑っていなかった。幸村は本来自分が得るはずだったものを仮そめであっても手に入れたくて強請ったことがある。
「真田、他の練習はしなくていいのかい?」
 キスにも慣れてきて歯をぶつけるようなことはなくなった。唇の柔らかさを堪能する余裕もできた。だけどいつもそれだけで、幸村が誘うように唇のあわいを開いても舌で擽ってもいつも触れるだけのキスしか与えられない。
 ずるいと思いながらも決して小さくはない胸を押し付けてもっと先の行為を求めても、真田は首を横に振った。
「それは取っておきたいんだ」
 誰のために。幸村以外の誰にそれを与えるというのか。股にあるそれはしっかり反応を示しているくせに!
 泣きたいのを我慢して幸村は微笑んだ。

 おまえは一体誰が好きなんだ。四六時中幸村といるというのにもう誰かと付き合っているのか。それともこれから付き合うのか。聞けないまま年月だけが過ぎてゆく。
 中学を卒業して、一年、二年、三年。互いにプロになって。年月を重ねて。女子の大会で先に優勝した幸村を追うように真田が優勝して。

「……え?」

 目の前にアクアマリンの指輪がある。もう入らなくなったあのおもちゃではなく本物の石が輝く指輪だ。
「幸村、好きだ。待たせてすまなかった。俺と結婚してくれ」
 あの頃と変わらない真っ直ぐな目で真田が言う。
 どうして。好きな人はどうなったんだ。混乱しながらも幸村は頷いた。諦めていたものをもう取りこぼしたくなかった。
 待ち望んだ二人の結婚式の日。意外にも真田が神前式ではなく教会式を希望したのを不思議に思っていた幸村は誓いのキスのその瞬間に気が付いた。あの練習が、見知らぬ他人のためではなく、来るべき二人の結婚式のためのものであったことに。
「言葉が足りないんだよ!」
 それはお互い様であるのだが。初夜で真田をグーで殴った幸村は、しかし自分は絶対悪くないと思っている。